歴史的美術館「土蔵ギャラリー」

相馬哲平が過ごした函館周辺の
歴史と文化を色鮮やかに展示

文久元(1861)年、越後の国から大志を抱いて開港間もない箱館(現在の函館)に渡った28歳の青年・初代 相馬哲平は、箱館戦争の混乱の中に巨利を得、ニシン漁への投資と海陸産物の商いなどで成長し、北海道屈指の豪商となりました。
歴史的美術館「土蔵ギャラリー」は、その哲平が過ごした時代を中心に、箱館戦争関連の写真や絵画、ニシン漁の江差屏風(複製)、絵巻、アイヌ資料などを展示しています。

歴史的美術館「歴史回廊」

「土蔵ギャラリー」とは

美術品を通して北海道(旧蝦夷地)の歴史と文化を後世へとつなぎます

この住宅を建てた初代 相馬哲平が過ごした北海道は、明治の開拓から始まり、歴史が浅いという話をよく耳にします。
しかし、日本列島は紀元前約13,000年から旧石器時代、縄文時代が約1万年間続いたことが出土品から判明しており、道南地域では紀元前約7,000年頃の出土品があります。そして、2021年には、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として、この地の縄文文化が世界文化遺産に登録されました。
北海道にも古くから人々の交流や歩みがあり、夷島(えぞがしま)・渡党(わたりとう)の時代から道南地域は本州との間で活発な交易が行われ、アイヌと和人との共存や抗争など様々な歴史の痕跡が刻まれてきました。
当施設の「土蔵ギャラリー」では、哲平が富を築き上げるきっかけである箱館戦争に関わった榎本武揚など、幕末武士たちの生き様を物語る資料を通して、北海道と函館の歴史・文化を少しでも次世代に伝えることができたなら幸いです。

江差屏風

江差屏風(えさしびょうぶ)

小玉貞良「江差屏風」/182cm×382cm
紙本彩色 屏風(六曲一隻)
18世紀中頃(江戸時代宝暦年間)

初期松前藩政を支えたのは近江商人でした。彼らは松前地の生活物資や、エゾ(アイヌ)交易商品と産物の安定移出入や鰊漁資金の提供を通して産業の発展に寄与し、松前藩への拠出金も大きいものがあったといいます。
〈江差屏風〉には、江戸時代中期およそ宝暦年間(1751~1764)のころ、鰊漁を背景に勃興著しい江差のまちとその周辺の賑わいが描かれています。 通りには商家や蔵が建ち並び、背後の高台には奉行所や寺社が配されています。通りを武士や町人、物売りが行き交い、前浜では漁師が鰊漁に忙しく、浜辺についた船からは次々に荷揚げが行われています。アイヌ文様を施したアットゥシ(樹皮衣)やレタラペ(白いもの-草皮衣)を着用する漁夫たちの姿は江差の繁栄や鰊製品の背後にある、北の世界・蝦夷地を彷彿とさせています。
江差屏風は、近江商人が蝦夷地の様子やその活動を伝えるために、城下松前の様子を描く松前屏風と一対で制作したとされていますが、この江差屏風と対になる松前屏風は伝えられていません。末尾に松前産竜円斉貞良筆 印 とあり、小玉貞良の作とされています。
※現在は長期保存を目的として北海道に譲渡され、公立はこだて未来大学の最先端デジタル技術によって制作された精密な写真複製を展示

江差屏風
ゑ寿絵(えぞ絵)一巻

惠寿絵(えずえ)一巻

小玉貞良「惠寿絵」/30cm×848cm
紙本彩色 巻子装
18世紀中頃(江戸時代宝暦年間)

小玉貞良がアイヌの世界を描いた〈アイヌ絵・アイヌ絵巻〉は、衣服や武器・武具、漆器などのアイヌの宝物を巻頭に飾り、堅雪を踏みしめて早春の山中に分け入り、巣穴で冬眠中の羆を狩る様子を始まりに、生まれたばかりの子熊を連れ帰って大切に育て、その魂を神の国へ送り帰す盛大なクマ送り儀礼を柱にして、昆布取りやオットセイ猟などのアイヌの生業、その産物を携えての松前城下・城内や会所での献上・交易といった四季折々の場面を描いたもので、函館市指定の「蝦夷国風図絵-えぞくにぶりずえ-」と呼ばれる絵巻物をはじめ、多くの写本が知られています。これらの絵には幾分の誇張が加えられていることもあり、まだ見ぬ北の世界や産物を人々に伝えいざなう大きな力となりました。展示の〈惠寿絵(えずえ)〉一巻はその一本で、末尾に「龍円斎」「小玉氏印」が捺されています。軸装に大陸渡りの「蝦夷錦」が用いられているのもごく珍しい例です。
小玉貞良は松前生まれの絵師。本格的にアイヌ絵を描いた最初の絵師で、松前藩お抱えともいわれています。

夷酋列像

夷酋列像(いしゅうれつぞう)

蠣崎波響「夷酋列像」複製
/チキリアシカイ像

メナシ(東―厚岸・釧路・根室地方)のアイヌは豪強をもって知られていました。松前藩は膨大な借金と引き換えにこの地方の漁場経営を商人に委ねることにしました。不当な取引や過酷な労働、非道・理不尽な行為はアイヌ社会の存続を危うくする状況となり、「クナシリ・メナシの蝦夷蜂起」を惹起しました。この蜂起終息に功績があったとされる12名の長老を描いた蠣崎波響筆〈夷酋列像〉が近年注目されています。長老たちの功労の陰にあったのは、松前藩による我が子をはじめとする蜂起の指導者たちの処刑を受け入れることでした。異国情緒漂う衣装をまとった長老たちの威容は蝦夷地を支配する松前藩の権威を強調するために作り上げられた虚構の産物で、装飾過多とも評されています。展示の〈夷酋列像複製〉11点はフランスのブザンソン考古美術博物館の特別許可により、公立はこだて未来大学川嶋研究室の最先端デジタル技術によって、波響自筆本から作成したものです。期せずして長老たちの心底を描出しているようにも思われます。波響は二度とアイヌ絵を描くことはありませんでした。
蠣崎波響(1764~1826・宝暦14年~文政9年)は松前藩主の子として松前に生を受け、長じて家老職として藩政を担い、漢詩文・画業に秀でて多くの文人と親交を結び、松前応挙と称されました。

茶山翁居亭図・廉塾図

茶山翁居亭図・廉塾図
(ちゃざんおうきょていず・れんじゅくず)

蠣崎波響「茶山翁居亭図」・「廉塾図」

波響が交流のあった広島・福山藩の儒者「菅茶山」の居宅・家塾(廉塾)を描き、同じく幕臣であった「岡本花亭」が賛文を記しました。菅茶山は江戸時代を代表する詩人としても有名で、三者とも同時代を生きた幕臣であり、波響が代表作の「異酋列像」を描いた後の作と思われます。近世を代表する画人の一人である波響と、同じく時代(徳川末期)を代表する漢詩人であった茶山の交流が窺われ、絵画だけでなく、資料的にも非常に価値の高い作品。菅茶山は「波響が漢詩人として生涯、師と仰ぎ、大きな感化を与えた人物であり~」と五十嵐聡美氏の「柿崎波響・落款工考」に記載されています。

四季花鳥図巻

四季花鳥絵巻
(しきかちょうえまき)

松前波響 四季花鳥絵巻 「熊坂家旧蔵」

松前藩が移封した梁川を自然豊かに描いています。

孔雀図

孔雀図(くじゃくず)

岸駒(がんく) 宝暦6年―天保9年(1756~1838)

京都・岸派の祖~江戸後期の画家・有栖川宮家・御所に仕え「越前の守」と称す虎の絵で有名。

アイヌ家族団欒図

アイヌ家族団欒図

平福穂庵 1844-1890 (屏風 2曲1双)

平福穂庵(1844-1890)は、秋田の角館町に生まれ、北海道に度々わたり、日高浦河・函館に住み、アイヌの生活や風俗を観察しました。函館には明治15年から2年間住んで、最後のアイヌ絵師と言われた平沢屏山や、京都で評判だった「夷酋列像」等の蠣崎波響の作品を研究し、アイヌを主題にした絵を残しています。本作品は、2020年11月15日発行の鹿島美術研究・年報第37号 別冊に秋田市立千秋美術館 学芸員 村田 梨沙氏の「平福穂庵によるアイヌ絵についての研究」の中で取り上げられ、説明されています。

コロポックルの図

コロポックルの図

「子どものためのアイヌユーカラ画集」
絵:岩船修三 (1908~1989)

“蕗の葉の下の小さい神様コロポックル”
絵:岩船修三 詩:更科源三

私たちの先住民族であるアイヌ民族は、世界で最も少数な民族の一つです。現在では北海道の限られた地域のみにしか見ることは出来ません。過去のアイヌ民族が、北国の酷寒の荒野の自然の中で生き抜いてきたことを、多くの人々に知ってもらいたいと思い、文字のなかったアイヌ民族の神話と民謡を画集にして発刊することにしました。 (「子供のためのアイヌユーカラ画集」より)

蝦夷島奇観(写本) 屏山風

蝦夷島奇観(写本)
屏山風

平澤屏山「蝦夷島奇観」
(ひらさわびょうざん「えぞしまきかん」)

伊勢山田に生まれた村上嶋之允(1760~1808・宝暦10~文化5年)が1800(寛政12)年〈蝦夷島奇観〉を著しました。この書はアイヌの風俗が強制的に改俗・和人(本州人)化され、失われていくことを憂慮した嶋之允が、日本古来の姿にも通じると考えるアイヌ本来の姿を後世の人たちや多くの人々に広く伝えようとして作成したといいます。絵と文による克明な記録は、単に「珍奇なアイヌ習俗を好奇の目で記」したものとは異なる、「江戸時代屈指のアイヌ文献であり、アイヌ研究に係る最も高い著作」と識者から評されています。
文化4年以降に増補・幕閣に献上された東京国立博物館蔵本が原本とされており近年活字化されています。多数の写本が残されていますが、その中にはアイヌ絵師として著名な平澤屏山のものも知られています。
弘化年間(1844~47)に南部から箱館に来住した平澤屏山(1822~1876・文政5~明治9年)は、絵馬屋を家業としましたが、アイヌ風俗を題材にした多くの絵を残しました。屏山は函館の商人福島屋杉浦嘉七の知遇を得、日高・十勝のアイヌ集落に足を運び、アイヌの人たちと起居をともにしたといいます。その精密な描写は「アイヌ風俗画を集大成した絵師」と高く評価され、国内や海外の博物館・美術館などに多数の作品が伝えられています。また、時に登場する子供たちの表情は屏山の慈愛に満ちた視線によると評されています。
展示の〈蝦夷島奇観三巻〉は描かれた場面や人物描写、色調などには屏山作品との共通・類似がみられるところから、屏山もしくはそれに連なる人の作品(写本)とも推測されています。

コロポックルの図

コロポックルの図

松浦武四郎「コロポックルの図」

松浦武四郎(1818~1888・文化15年~明治21年)は幕末に、六度にわたり蝦夷地を踏査し、多くの調査報告・紀行文を著して蝦夷地を広く紹介しました。
明治政府に登用された武四郎は、その調査成果に基づき国名や郡名の選定案を提出し、北海道の名付け親としても知られています。蝦夷地の各所で苦しみあえぐアイヌの姿を目にし、心を痛めていた武四郎は、北海道開拓使判官就任に際して、その窮状を救おうとの思いを強くしていたといわれますが、程なくして官を辞しています。
以後は「馬角斎-ばかくさい」と号し、晩年を趣味に過ごしました。〈コロポックルの図〉は武四郎がアイヌの伝説をもとに蕗の葉の下にうずくまるコロポックルを描いたものです。

詩の意味は
 蕗の葉を屋根に うずくまる 山道の傍ら
 ミミズが蛇のように 泥の中もがいている
というようなことでしょうか。

明治七年七月 北海道人画併題 印(「馬角斎」)の落款があります。 市立函館博物館には市の文化財に指定されている武四郎の「コロポックルの図」1 点があり、親しみやすく味わい深い作品として知られていますが、本作品の賛はアイヌの行く先を暗示するようでもあり、つぶさにアイヌの実情を目にしていた武四郎の真情が想像されます。

鶴の舞図

鶴の舞図(つるのまいず)

松浦武四郎「アイヌ鶴の舞図」

松浦武四郎は調査報文と風景画や河川図などを合わせて残していますが、著書「蝦夷漫画」(復刻版)の解説によると、アイヌの代表的な踊りである鶴の舞に大きな関心を寄せ、いくつかの絵を残しているといいます。明治乙酉は18年、武四郎最晩年の作でしょうか。 なお「北海道」は「蝦夷地」の改称に当たり武四郎が提案した最初の六案の一つ、「北加伊道」を改変したもので、武四郎が北海道の名付け親とされる由縁でもあります。

丁巳 由宇羅津布日誌

丁巳 由宇羅津布日誌
(ひのとみ ユーラップにっし)

松浦武四郎 安政4年(1857)著
「東西蝦夷山川地理取調日誌 第二十三巻」

原本は、所蔵している北海中学校北駕文庫(現北海学園所属)から昭和25年頃失われたことになっています。旧相馬家住宅が所蔵している、丁巳 東西蝦夷山川地理取調日誌 第二十三巻箱館奉行所呈上・「由宇羅津布日誌・遊楽部川~箱館」は、松浦武四郎直筆の箱館奉行所献上自筆本です。

箱館戦争の記録

相馬家が大資産家となる出発点は、箱館戦争後の食料難を見越した初代哲平が全財産を元手に米を買い回り、莫大な利益を手にしたことから始まっています。当時の写真を見ることで、いかに初代 相馬哲平が先見の明があり、その商機のためには豪胆になれた人物かがうかがえます。
ここからは、その箱館戦争に関する何点かの写真・美術品を紹介していきます。

松前・福山城の築城

松前・福山城の築城

慶応3(1867)年撮影の松前・福山城
木津 幸吉・田本 研造 撮影

嘉永2(1849)年7月、幕府は外国船に対する防備強化のため、松前藩主の松前崇広を城主大名に列して築城を命じました。松前藩は、高崎藩の軍学者である市川一学に新城を依頼し、安政元(1854)年10月に竣成となりました(構造・面積は、本丸、二ノ丸、三ノ丸、堀廻り等、約70,700㎡)。建築物では、三重櫓の天守閣、二重櫓、太鼓櫓、渡櫓、櫓門(本丸御門)、平門、塀重門、柵門等が建築され、本丸御殿や南西の隅櫓は福山館時代の物が再利用され、三ノ丸に海岸防備目的の7基の台場及び城外に9砲台25門の大砲が設置されました。城跡全域は、昭和10(1935)年に国指定史跡となり、城の建築物は、昭和16(1941)年に三重櫓の天守閣と本丸御門が国宝に指定されました。天守閣は、箱館戦争や第二次世界大戦の被害を免れましたが、昭和24(1949)年の松前町役場火災の延焼により焼失しています。この後、昭和25(1950)年には本丸御門は国指定重要文化財となり、焼失した天守閣は昭和36(1961)年に再建されました。

箱館戦争・松前福山城攻防戦の図

箱館戦争・松前福山城攻防戦の図

函館市中央図書館所蔵

明治元(1868)年10月20日、榎本武揚率いる旧幕府軍が、森村・鷲の木に上陸し、箱館戦争の開始となりました。上陸後二手に分かれて箱館へ進攻し、同月26日には五稜郭を占拠し、箱館市街地を制圧しました。次に、蝦夷地統治に向けて、土方歳三統率のもと、彰義隊、額兵隊、陸軍隊など700名の精鋭部隊が松前攻略へ進軍しました。進軍部隊は、11月2日に知内、3日に福島を制圧し、4日には吉岡に到着、5日の早朝から松前福山城の攻撃を開始しました。松前藩兵は城中へ逃げ込んだり、城下町を焼き払った後、江差方面に敗走し、夕方までに福山城は陥落し、松前攻略を完了しました。この後、精鋭部隊は11月15日までに、上ノ国、江差、館新城の厚沢部方面の攻略に成功し、蝦夷地南部の占領をすることになりました。こうして、12月15日には箱館において旧幕府軍による蝦夷地仮政権が樹立することになりました。

箱館大戦争之図

箱館大戦争之図

永島孟斎 筆

この錦絵は、箱館戦争における最大の決戦となった、明治2(1869)年5月11日の新政府軍箱館総攻撃時の旧幕府軍の戦闘の様子が描かれています。
明治元(1868)年に蝦夷地南部を占領した旧幕府軍に対して、新政府軍は反撃を開始します。明治2(1869)年4月9日に乙部へ上陸、その後に江差を制圧、一路、箱館方面に向けて進撃し、4月17日に福山城を奪回します。新政府軍は、4月24日に箱館港入口付近での旧幕府軍との海戦勝利の後、旧幕府軍が敗走した箱館に対して、5月11日早朝から総攻撃を決行し、短時間で制圧しました。旧幕府軍の幹部は、箱館・弁天台場の奪回・救出に出撃を決定し、副総裁松平太郎を筆頭に陸軍奉行並土方歳三、額兵隊、見国隊、神木隊、士官隊などで一本木関門突破を謀り、また、陸軍奉行大鳥圭介、衝鋒隊古屋作左衛門、伝習歩兵隊大川正次郎などが桔梗・大川方面の防戦にあたった5月11日の旧幕府軍の動向が、錦絵に描かれています。

箱館五凌閣之降伏の図

箱館五凌閣之降伏の図

松月保誠・早川徳之助

この錦絵は、箱館戦争が旧幕府軍の敗北となり、榎本武揚らの旧幕府軍幹部が新政府軍へ降伏を申し出た、明治2(1869)年5月17日の降伏会談の様子が描かれています。
明治2(1869)年5月11日の新政府軍箱館総攻撃により旧幕府軍の敗北が確定的となり、旧幕府軍兵士は五稜郭、千代ケ岡陣屋、弁天台場の3か所に孤立となりました。新政府軍は、5月13日に五稜郭と弁天台場へ降伏勧告を出したが、旧幕府軍側は抵抗していました。しかし5月15日に弁天台場、翌16日に千代ケ岡陣屋が降伏。千代ケ岡陣屋では、守備隊長中島三郎助らが戦死しています。最後に残された五稜郭も降伏勧告の受け入れを決定し、5月17日に新政府軍へ降伏の申し出が行われました。5月17日に、旧幕府軍の総裁榎本武揚らの最高幹部4名が出頭し、新政府軍側に降伏を申し出て、箱館戦争が終結し、翌18日には五稜郭が新政府軍へ明け渡されました。

山岡鉄舟

山岡鉄舟

首頭印・判読不能
其志潔故其稱
物芳其行廉故
死而不究 鉄舟居士 白文方印〔山岡高歩〕 白文方印〔鉄舟居士〕

其の志は潔き故 其の稱は物芳
其の行は廉き故 其の死は而して不究
(史記の屈原列伝からの引用)

榎本武揚

榎本武揚

一杯相對共怡々月照
雪拝半醉時更願
昏々渾以夢紛々世事
不合知 武揚 白文方印〔榎本氏揚〕 朱文方印〔號柳邨〕

一杯相對し共に怡々(よろこぶ)
月が照らす雪を拝し時に半醉
更に昏々とし願うは夢を以て輝く
紛々とした世事を合い知らず

(引用元不明・自作か)
榎本武揚

函書は「小牧昌業」

書は「西郷隆盛」
函書は「小牧昌業」

■小牧昌業
薩摩出身の漢学者・官僚。1922年(大正11年)没
黒田清隆に仕え奈良県知事、愛知県知事などを歴任したのち、貴族院議員を務める。

■渡辺霞亭氏 所蔵品
朝日新聞記者、歴史小説家。1926年(大正15年)没
大正9年4月23日の大阪美術倶楽部の入札会に出品した

■西郷隆盛の書(西郷南洲)
数年征戦不謀功
自作干城胆満躬
更憶微行花巷夜
悠然一睡圧兇雄

数年の征戦功を喋らず、
自ら干城と作って胆躬に満つ。
更に憶ふ微行花巷の夜、
悠然一睡して兇雄を圧せしを。
(註)これは、前9年・後3年の役で勇名をとどろかせた八幡太郎源義家を詠まれたものである。
(解)長い年月の間の戦争に自分の手柄の為の謀をめぐらすような事は無く、ただ自ら楯となり城となって全身是胆ともいうべきであった勇敢な公の行動は実に敬服の至りであるが、更に公が降将宗任を伴われて京都祇園の花街を微行された夜にゆったりと一睡してしまわれた公の度量の大を憶うと敬服の念がいよいよ深まる。

西郷隆盛は箱館に来ていた!
日本を明治維新に導いた西郷隆盛が、箱館戦争(1868~1869年)終盤の1869年(明治2年)5月1日、鹿児島から軍艦で箱館に向い、同25日に到着した。だが、戦争は一週間前に旧幕府軍の降伏で終結しており、箱館に4日間滞在して東京に戻った。

幕末三舟

幕末三舟

【山岡鉄舟】
窓前草色侵吟庵
窓前の草色 吟庵を侵す
窓辺にはえる草が詩を吟ずる庵のあたりまで広がっている。

【勝 海舟】
遊乎万物之所終始
万物の終始する所に遊ぶ(「荘子」達生篇の一節)
万物の生成しまた環っていく究極の世界に精神を遊ばせる。

【高橋泥舟】
一張設綸青弾老少古今聴之不聞裏山高谷水深

一張 設くる綸は青く 老少古今を弾く
これを聴くとも聴かざるの裏 山は高く 谷水は深し

青い糸をつけた一はりの琴 老少古今を自在に弾き出す
いつしか聴いているのかいないのか はっきりしない心持とりまく山々はいよいよ高く、そこを流れる谷川はいよいよ 深く感じられる。